要旨
日本は現在、重要な転換点にある。強固な研究能力と継続的な研究開発投資を背景に、 科学的発見の分野で長年にわたりグローバルリーダーとして高い評価を受けてきた日 本は、ライフサイエンス領域においても確固たる基盤を築いてきた。しかし、地政学リ スクの高まり、バイオ医薬品イノベーションの源泉としてのアジア諸国の台頭、バイオ テクノロジーと人工知能 (AI) の融合などによって急速に変化するグローバル環境の中 で、この基盤は必ずしも相応のイノベーションや商業的リーダーシップへと結び付いて いるとは言えない。このギャップは、日本の長期的な競争力を脅かす「イノベーション パラドックス」を生み出している。
日本の課題は、科学の質にあるのではなく、イノベーションをいかにスケーラブルな臨 床的・経済的価値へと転換するかにある。グローバルでは、バイオ医薬品イノベーショ ンのルールそのものが再定義されつつあり、特に研究開発は新たなモダリティや AI 主 導のアプローチへと移行し、オペレーティングモデルは統合型からエコシステムのオー ケストレーションへと進化している。さらに、データ、テクノロジー、パートナーシップを 戦略的に活用できるかによって競争優位性が大きく左右されるようになっている。同時 に、アジアは主要なイノベーション拠点として急速に存在感を高めている。
こうした変化の中で、日本はその強みを生かし、自らのポジションを再定義する好機に ある。投資拡大およびエコシステム形成を推進する近年の政府の取り組みにより、変革 を加速するための環境整備も進みつつある。
本稿では、以下の主要テーマを概説する。
- イノベーションを再定義するグローバルのマクロ動向および業界の変化
- AI による研究開発パラダイムの変革
- AI 主導の価値創出を支えるコア要素
- 企業、投資家、政府が強化すべき戦略的な取り組み
AIの積極的な活用、オペレーティングモデルの転換、そしてよりダイナミックなエコシステムのオーケストレーションを通じて、日本は潜在的な強みを発揮し、再び真のグローバルリーダーシップを確立することができる。
変化するグローバルイノベーションの構図
世界経済、バイオファーマ産業、そしてその基盤となるイノベーションの構造が急速に変化する中、日本は自国のイノベーションエンジンを再考し、強化することを迫られている。
本章では、相互に影響し合う以下の4つの変化を整理する。
- 分断と不確実性が高まるグローバル経済
- バイオ医薬品における研究開発パラダイムの抜本的な転換
- 統合型からエコシステム型オペレーティングモデルへの移行
- グローバルなイノベーション拠点としてのアジアの台頭
1.1. 不確実な世界におけるイノベーション
世界経済は、グローバリゼーション、効率性重視、低コスト成長を特徴とした時代から、より分断化が進みながらも依然としてレジリエントなモデルへと根本的な転換期を迎えている。自由貿易を中心とした一極集中の世界秩序は、地政学的競争、エネルギートランジション、資源制約によって形作られる多極化した環境へと移行しつつある。同時に、人口動態の逆風、インフレと金利の上昇、そしてAI の急速な台頭が、各産業のイノベーション、競争、価値創造のあり方を根底から変えようとしている。
- 貿易制限の増加 : 世界における貿易制限の件数は、2018年以前は年間1,000件未満であったのに対し、2022年には3,000件超へと急増しており、国家および地域レベルでのレジリエンス重視の高まりを反映している1。
- 「地政学的」距離の縮小 : 世界の貿易量は引き続き拡大し、2025年には約35兆ドルに達した。その一方で、各国は「地理的」距離が大きく変わらない中でも、政治的に整合するパートナーとの取引を拡大している( 図表1)2
貿易は拡大しているが、地政学的距離は縮小している
- 地域化の加速と新たな貿易ブロックの形成 : 貿易とサプライチェーンは、米国・メキシコ・カナダ協定 (USMCA: 加盟国 GDP 合計約24.37兆ドル)、地域的な包括的経済連携協定 (RCEP: 約25.84兆ドル)、欧州連合 / 欧州経済領域 (EU/EEA: 約18.85兆ドル) といった主要な地域経済ブロック内への集約が進んでいる。地政学的緊張や米国の関税政策も一因となり、企業は生産・調達拠点をよりレジリエントな「フレンドショアリング」型の地域ネットワークへと再編しており、完全に統合されたグローバルシステムからの構造的な転換が進行している3。
同時に、AI および先端技術は、特に半導体、AIインフラ、先端製造業における深いグローバル相互依存関係を強化することで、広範な地域化に対する強力な対抗力として機能している。2025年には、AI 関連財 ( 半導体、GPU、サーバー、ネットワーク機器など) はグローバル貿易成長の最大のけん引役となり、約40% の伸びを記録した4。これらの生産は依然として高度に集中しており、アジアが世界の AI 関連輸出の約65%5を占めるため、短期的にはいかなる地域も単独で AI 技術スタックの全体を再現することはできない。しかし、こうした相互依存は戦略的保護主義の増大によって脅かされている。各国政府は重要技術に対する補助金、輸出規制、リショアリング ( 国内回帰 ) の取り組みを加速させる一方、資本は戦略的セクターへ急速にシフトしている。グリーンフィールド直接投資(FDI) のうち、「将来を形づくる」産業とそれを支える資源産業 へ の 投資比率 は、2015~19年 の 約55%から2022~24年には約75%へと上昇した ( 図表2)6。結果として、AI はグローバルな統合を深化させると同時に、地域的な戦略ブロックの形成を強化している。
資本は「将来を形づくる産業」とそれを支える資源関連産業へ流入
製薬業界への示唆
これらの構造的変化は、もはや抽象的なマクロトレンドではない。グローバルな不確実性が貿易・投資の流れを再形成し、AI は実現技術から競争優位の中核的な源泉へと進化しつつある。同時に、アジアが高度な科学・人材・ケーパビリティへのアクセスを拡大する中で、イノベーションの地理的構造が変化している。
さらに、製薬業界は、特に米国において政策および薬価をめぐる不確実性の高まりに直面している。最恵国待遇 (MFN) に連動した薬価メカニズムやより広範な償還圧力を含む薬価改革に関する議論が続いており、研究開発投資やポートフォリオの優先順位づけ、上市戦略などに対する慎重姿勢が強まっている。
これはイノベーションが「どこで」「どのように」起こるかの両方を変化させる。バイオファーマ・バイオテック企業は、新たなケーパビリティと競争優位の源泉を獲得するために、イノベーションの調達方法、パートナーシップの役割、そしてAIをイノベーションモデルの不可欠な一部としていかに組み込むかを再考しなければならない。
1.2. 新技術による研究開発の変革
研究開発パラダイムは、現在、重要な転換点にある。治療モダリティの根本的な変化、生産性向上とコスト削減を求める圧力の高まり、そしてAI の加速という3つの大きな潮流によって再構築されつつある。こうした複合的な要因を背景に、業界は従来のディスカバリー主導型モデルから脱却し、ニーズ起点かつAI 主導の新たな研究開発エンジンへと移行している。
モダリティシフト: 生物学的複雑性の受容
低分子医薬品やモノクローナル抗体といった従来型治療が依然として市場価値の大半 ( 売上高の約90%)を占めている一方で、パイプラインは量と多様性の両面においてより複雑な治療プラットフォームへとシフトしている ( 図表3)7。
R&Dパイプラインの構成は、CGTやADCなどの次世代モダリティの拡大により多様化が 進行しており、単一モダリティへの依存度は相対的に低下している
- 新規モダリティのシェア拡大 : 新規モダリティはパイプライン全体の成長を上回る速度で拡大している。その割合は2021年の約26% から2025年には約31% へと上昇し、従来型モダリティは約74% から約68% へと低下している8
- 新規モダリティ内における多様性の進展 : 成長は単一のモダリティに集中していない。ADC ( 抗体薬物複合体 ) や多重特異性抗体・二重特異性抗体といった先進的バイオ医薬品に加え、CGT (Cell and Gene Therapy: 細胞・遺伝子治療 )や核酸医薬、その他の新規モダリティを含む新興プラットフォームへと拡大している。これによってイノベーションの裾野が広がり、単一モダリティへの依存を低減し、競争の軸は単一製品の成功から、継続的なパイプライン創出を可能とするプラットフォーム型モデルへと移行している7
この動きは、AI の台頭と相まって、従来の自己完結型の研究開発モデルだけでは現代科学の進歩に対応することが難しくなっていることを浮き彫りにしている。
研究開発の生産性における持続的な課題
科学の進展にもかかわらず、研究開発において 重要な生産性の課題は依然として解消されていない。
- 改善が進まない指標: 2025年半ば時点においても、第I相試験から上市までの平均期間は約9.4年、成功確率 (累積)は約12.6%にとどまっている9。2020年から2024年にかけて、1製品当たりの平均研究開発費は約57億ドルに 達した10
- ROIの低下: ROIビンテージ指数は、パンデミック期の高水準から低下している。承認件数は高水準を維持しているものの、製品当たりの収益低下により、リターンの改善には結び付いていない(図表4)
パンデミック下で見られたR&D生産性の向上は一時的なものにとどまった
- アセット集中とライフサイクルの短縮: 生物学的ターゲット( 標的 ) あたりの開発アセット数は2000年以降で約2.5倍に増加し11、ラ イフ サ イクルの短縮を加速させている。競合製品は従来の10年単位ではなく、2~3年で登場するようになり、場合によっては先発品の上市から1年以内に出現するケースも見られる(図表5)
競争激化によりライフサイクルの短縮が加速し、ファースト・イン・クラス製品の上市後 約2年で複数の競合品が出現
AIの加速: 新たな研究開発エンジンの創出
AIは、この循環を打破する中核的なドライバーとして台頭している。機械学習から生成AI、そして自律エージェントへと急速に進化する中で、AIは研究開発プロセス全体を再構築する可能性がある。
製薬企業の経営層の約85%がAIを重要な要素と認識しており、約90%の企業がAI主導の創薬に投資している。AI関連支出は2030年までに6倍に増加すると予測されており、同時に2015年以降、製薬企業とAIネイティブ企業との提携は100件以上に達している12。AIはもはや漸進的な改善の手段ではなく、抜本的に新たな研究開発パラダイムを構築するために活用されている。
モダリティの変化、生産性向上への圧力の高まり、そしてAIの急速な進歩が重なり合うことで、新たな研究開発エンジンの必要性が高まっている。この新たなモデルは、分子や技術プラットフォームを起点とするのではなく、患者のアンメットニーズを起点とし、臨床的・生物学的インサイトから逆算して治療法を設計する。
AIは、より精密なターゲットおよび治療設計を可能にするとともに、開発プロセス全体における主要な失敗要因のリスク低減を支援することで、この変革を加速し得る。例えば、マルチモーダルデータの統合による臨床アウトカムおよび安全性リスクの予測精度向上や、患者層別化の改善による成功確率 (PoS: Probability of Success)の向上が挙げられる。最終的に、このアプローチは、プログラムの約90%が上市前に失敗するという業界の長年の課題であるトランスレーショナルな「死の谷 (デスバレー)」の克服を目指すものである(図表6)13。
新たなR&Dエンジン: ディスカバリー主導からニーズ主導へ、AIを活用した患者中心の 標的探索へ移行
1.3. 統合からオーケストレーションへ: 研究開発オペレーティングモデルの 再構築
自己完結型の製薬研究開発組織という従来モデルは、過去のものとなりつつある。生産性に対する圧力の高まり、治療の複雑性の増大、そしてAIの変革的な影響を背景に、業界は社内統合型モデルから、複数の企業やケーパビリティを戦略的に組み合わせる「エコシステムのオーケストレーション」へと移行している。この新たなパラダイムは、高度な外部パートナーネットワークを基盤としており、価値は社内の創薬活動のみによってではなく、イノベーションエコシステム全体にわたる差別化されたケーパビリティを戦略的にマネジメントすることによって創出される。この進化は、効率化を目的としたアウトソーシング、イノベーション創出に向けたパートナリング、そして業界横断的な協働のオーケストレーションという3つの主要な側面で進展している(図表7)。
R&Dは、自己完結型から、外部パートナーのオーケストレーションへと移行している
効率化を目的としたアウトソーシング: 専門パートナーの台頭
コスト上昇と高度な専門性へのニーズの高まりを背景に、バイオ医薬品企業は中核機能のアウトソーシングを拡大しており、開発業務受託機関 (CRO)や医薬品開発・製造受託機関(CDMO)の活用が進んでいる。これにより、自社で構築・維持することが困難または非効率なスケール、スピード、ケーパビリティを外部から確保できるようになっている。
- 市場の拡大: これらのサービスに対する需要は、グローバルCRO市場の急速な拡大に表れている。同市場は、2020年の490億ドルから2025年には760億ドルへと、年平均9%で成長すると見込まれている14。この成長は臨床試験の全フェーズにわたって見られ、とりわけ第II相および第III相試験が大きな割合を占めている
- グローバル需要: 北米が依然としてCROサービスの最大市場である一方、アジア太平洋 (APAC)地域が最も高い成長を示しており、このオペレーションモデルの変化がグローバルに進展していることを示している14
イノベーション創出に向けたパートナリング: パイプライン成長の原動力
パートナーシップ、ライセンス、M&Aを通じて取り込む外部イノベーションは、現代の製薬パイプラインの生命線となっている。バイオテック企業や小規模な研究機関が初期段階のブレークスルーを生み出す一方で、大手製薬企業はこうした外部の科学を統合する高度な能力を備えた存在へと進化している15。
- 実証された価値創出の源泉: データはこの戦略の有効性を明確に示している。2013年から2023年にかけて、新薬上市の約90%は外部イノベーションに由来している。2018年以降、売上高の約60%は外部から取得した製品が占めており、提携先からもたらされた化合物は社内アセットと比べて約10%高いPoSを示している。過去20年間にわたり、買収および提携によって獲得したアセットは、業界成長の主要なドライバーとなっている16
- 厳選化と高付加価値化が進むディール環境: 高品質な外部アセットを巡る競争が激化する中で、ディール対象はより厳選され、価値重視へと移行している。件数は減少傾向にあるが(2020年の約5,000件から2024年には約3,000件に減少)、総取引額は過去最高水準に達しており、M&Aを除く研究開発パートナーシップは2023年に1,920億ドル規模となっている。先進企業は量より質を重視し、件数を絞りながら大型案件を実行する傾向を強めており、より焦点を絞った高インパクトなパートナーシップへのシフトが進んでいる16
- アセット中心からプラットフォーム型提携へのシフト: ディールの対象は個別アセットの取得にとどまらず、AI創薬や先進モダリティに代表されるプラットフォーム技術へと広がっている。バイオ医薬品企業は、長期的な競争優位とスケーラブルなパイプライン構築に向けて、こうした基盤技術を対象とした提携および買収を積極化させている。近年の代表例としては、AIを活用した低分子創薬を目的としたノバルティスによるIsomorphic Labsとの最大12億ドル規模の提携(2024年)16や、第一三共のDXdプラットフォームを活用した3つの抗体薬物複合体(ADC)候補を対象とする、MSD(米国メルク)との最大220億ドル規模の協業(2023年)が挙げられる17。これらのディールは、パートナリングの軸足がアセット起点からケーパビリティ起点へと移行していることを示しており、生産性の向上、創薬プロセスの加速、持続的な差別化の実現に向けて、基盤技術への投資が一層重視されていることを反映している
業界横断的な協働のオーケストレーション: デジタルテクノロジーセクターとの融合
このエコシステムの進化における最新かつ最も変革的な段階は、バイオ医薬品とデジタルテクノロジーセクターの融合にある。生成AIの台頭、計算能力の拡大、そしてアウトカムベースのヘルスケアへの移行により、業界横断的な深いパートナーシップが不可欠となっている。このオーケストレーションにより、製薬企業はデータおよびAIからより大きな価値を引き出し、単なる医薬品にとどまらない統合的なソリューションを創出している。
この変革を体現する代表例として、業界をリードする2社の取り組みを紹介する。
イーライリリーは、戦略的パートナーシップ、共有プラットフォーム、自社インフラを組み合わせて、AI主導の研究開発モデルを追求している。2026年1月、リリーとNVIDIAはサンフランシスコ・ベイエリアにAI共同イノベーションラボの設立を発表し、5年間で最大10億ドルの共同投資を行う計画を明らかにした18。この取り組みは、リリーの科学的専門性とNVIDIAの先進的なAIエンジニアリングを統合し、「ウェットラボ」での実験とAI駆動のシミュレーションデザインを結び付けるものである。また、リリーは分子設計と創薬を加速するため、Isomorphic Labs(最大約17億ドル)19や、XtalPi(2023年:小分子創薬契約 約2.5億ドル、2024年:子会社AiluxによるAI抗体創薬契約 最大約3.45億ドル)20といったAIネイティブ企業との大型パートナーシップも締結している。これらの協業に加え、リリーはバイオテックパートナーがデータの機密性を保持しながらリリーの独自モデルにアクセスできる連合型AI/ML創薬プラットフォーム「TuneLab」を立ち上げ21、さらに1,016基のNVIDIA Blackwell Ultra GPUを搭載した9エクサフロップスのスーパーコンピューター「LillyPod」を導入した22。
サノフィも同様に包括的なアプローチを採用しており、エンタープライズAIプラットフォーム、戦略的アライアンス、ベンチャー投資を通じてAIファーストな組織としてのポジショニングを確立している。Aily Labsと共同開発した「plai」プラットフォームは現在2万人以上の従業員が利用しており、研究開発および製造全体のリアルタイムな業務可視化を実現するとともに、予測分析やターゲット同定を支援している23。同時に、サノフィはOpenAI、Formation Bio、Exscientia、BioMapにまたがるAIパートナーシップのエコシステムを構築し、目的特化型AIエージェントの開発と創薬の加速に取り組んでいる24。この戦略を支えるものとして、Sanofi Venturesの運用資産を14億ドル超に拡大し、初期段階のAIネイティブバイオテックへの投資に注力している25。
両事例に共通するのは、先進企業が単一のパートナーシップに依存するのではなく、テクノロジー企業、AIネイティブ企業、ベンチャーエコシステムにまたがる協働および投資のポートフォリオをオーケストレーションしながら、独自のプラットフォームおよびデータ資産を構築している点である。この多面的なアプローチは、差別化されたAIケーパビリティの確立と長期的な競争優位の維持に不可欠である。その結果、今後の製薬イノベーションは、企業単独で何を構築できるかではなく、いかに効果的にエコシステムをオーケストレーションできるかによって左右されるようになる。
1.4. 新たなグローバルイノベーションの構図: アジアの台頭と日本の現在地
グローバル製薬イノベーションの構造は大きく変化しており、アジアは急速に世界的なイノベーションの中核として台頭する一方で、日本は競争力の低下リスクに直面している。アジアはもはや単なる製造拠点や商業市場ではなく、科学的発見、パイプライン開発、臨床研究をけん引する強力なエンジンへと変貌している。この変革は、高水準な研究開発の急速な拡大、パイプラインの高度化と成長、そして国際的なディールにおける影響力の増大によって支えられており、その勢いは日本以外の地域に集中する傾向が強まっている。
アジアのイノベーション創出力の加速
アジアの台頭は、科学、パイプライン、エコシステムに至るイノベーションバリューチェーン全体にわたって明確に表れている(図表8)。研究領域では、急速に欧米との差を縮めており、高インパクト論文に占めるシェアは2023年の11%から2025年には18%へと拡大する見込みである。この成長はグレーターチャイナ (年平均13%)を中心に、韓国および日本によっても支えられている26。
アジアは、世界の製薬イノベーションにおける存在感を更に高めている
この科学的な勢いは、パイプラインにおける主導的ポジションへと直結している。現在、アジアはグローバルの革新的パイプラインの約43%を占めており、その成長率も米国 (7%)、欧州 (4%)を大きく上回る年平均19%で拡大している。これは、主にグレーターチャイナおよび韓国がけん引している。また、同地域は次世代モダリティにおいても影響力を高めており、グローバルの第I相~第II相アセットの44%を占めるとともに、後期開発段階への移行も進んでいる27。
エコシステムの観点でも、アジアの影響力は拡大を続けている。2025年までに、アジアのイノベーターはグローバル第III相試験の30%以上、ならびに初期段階試験の約35%を占めると見込まれている28。また、米国および欧州向けのアウトライセンス案件の約40%を占めている。これらのディールの大半 (67%)が第II相以前の段階29で行われているという事実は、グローバル企業がアジアを後期段階のアセット供給源としてのみ捉えるのではなく、開発サイクルのより早い段階からアジア発イノベーションへのアクセスを求めるようになっていることを示唆している。
変化する環境における日本の現在地
アジア全体の勢いの中で、日本は依然として科学的に強く、グローバルな研究開発に深く関与するプレイヤーであり続けている。高品質な研究を生み出し、2025年時点で世界の革新的パイプラインの約12%を占めている30。
しかし、その成長は周辺国に遅れをとっている。特にグレーターチャイナと韓国が初期段階のパイプラインを急速に拡大している一方で、日本の初期パイプラインの成長は2021年以降ほぼ横ばいで推移している。その結果、依然として一定の規模を維持しているものの、その相対的なポジションは徐々に低下している。このギャップは、新興モダリティにおいても顕著である。日本は抗体薬物複合体(ADC)などの領域で認知された強みを有する一方で、その拡大は限定的であり、新規のモダリティプラットフォーム全体に広がるような加速には至っていない。
高まる競争力のハードル
アジアの台頭は、競争優位の維持・強化に求められる要素を再定義している。もはや科学的卓越性だけでは十分ではなく、それをいかに効果的にスケーラブルなイノベーションへと転換できるかにかかっている。日本は、明確な要請を突きつけられている。すなわち、強固な科学基盤を持続的なイノベーションの勢いへと転換することである。ケーパビリティとアウトプットの間のこのギャップこそが、日本のイノベーションパラドックスの根底にある。
日本のイノベーションパラドックス: 岐路に立つ科学大国
急速に変化するグローバル環境の中で、日本はパラドックスを抱えている。日本は依然として世界有数の科学大国であり、基礎研究における深いケーパビリティとブレークスルーイノベーションの実績を有している。ところが、AI主導かつエコシステム型へと移行する新たなイノベーションパラダイムにおいて、こうした強みを持続的なリーダーシップへと十分に転換できていない。
科学的ブレークスルーの実績と卓越した 基礎研究の蓄積
日本は、世界の医療を変革する数多くの画期的な発見を生み出してきた。こうした実績は、ブレークスルーイノベーションおよび強固な基礎研究の双方を継続的に支える能力を有していることを示している。
医科学への貢献は、数十年にわたる画期的イノベーションに及ぶ。その象徴的なマイルストーンの一つが、1973年に三共が発見したコンパクチン ( 世界初のスタチン)であり、心血管疾患治療に新たな薬剤クラスを確立し、メバロチン (プラバスタチン)の商業化へとつながった。その後も、日本発のブロックバスターとして、大塚製薬のエビリファイ、藤沢薬品工業のプログラフ、中外製薬のアクテムラ、小野薬品工業のオプジーボ、そしてADCの先駆けとなった第一三共のエンハーツなどが生み出されてきた31。
こうした実績は、極めて強固な科学・研究基盤に支えられている。ノーベル賞の継続的な受賞に象徴される世界トップレベルの科学的卓越性に加え、日本は主要国の中でも研究者密度が高い。さらに、イスラエルや韓国と並んで、GDP比で見た研究開発投資においても世界トップクラスに位置している32。このような人材と資金の厚みは、一貫して高品質な科学的成果の創出を支えており、査読済み論文および引用可能文書数に基づくと、日本は医学、生化学、遺伝学・分子生物学、免疫学・微生物学といったライフサイエンス分野において、世界トップ5の水準で安定的に貢献している33。
イノベーションエンジンに生じる 構造的なひずみ
これらの強みを有するにもかかわらず、日本の従来型イノベーションモデルは、現代の研究開発環境の中でひずみが顕在化しつつあり、将来の競争力を脅かす構造的なギャップが明らかになっている。
日本は質の高い研究を持続的に生み出し、特に国際共同試験を通じたグローバル臨床開発においては確固たる存在感を示している一方で、パイプラインの成長は地域のリーダーと比較して緩やかなものにとどまっている。
日本の革新的パイプラインは2021年から2025年にかけて年率約1%の成長とおおむね横ばいで推移しており34、アジア全体と比較すると大きく遅れをとっている。また、その構成には構造的な偏りが見られる。後期段階では着実に進展している一方で、初期段階におけるパイプラインの弱さが将来のアセットの補充を制約している(図表9)。
主要な課題は、科学的卓越性とリスクマネーとの乖離にある。特許や論文数に基づく科学技術ハブとして、東京は世界第1位に位置づけられる一方で、ベンチャーキャピタル活動では第21位にとどまっている35。日本のVC投資全体は増減を繰り返しながらも、全体としては件数・金額ともに伸び悩んでいる。その中で、ライフサイエンス分野 (医療機器・ヘルスケア、バイオ・製薬)は依然として資金獲得に苦戦しており、VC投資全体に占める割合は2025年第4四半期時点で15%程度にとどまっている (図表10)。これは、創薬が本質的に長期にわたるプロセスであり、かつリスクが高いことに対する投資家の慎重な姿勢を示している36。
日本のベンチャー投資は件数・金額ともに伸び悩んでおり、バイオ・ヘルスケア関連への 配分も限定的
転換点: 政府による新たな時代の創出
これらの課題を踏まえ、日本政府は構造的ギャップの解消とスタートアップ主導の新たなイノベーション時代の実現に向けた一連の政策転換を進めている。
その中心的な取り組みの一つが、ライフサイエンス分野における投資拡大と協働の強化である。例えば、2022年6月に立ち上がったAMED (日本医療研究開発機構)の「創薬ベンチャーエコシステム強化事業」は、累計約3,500億円の予算規模を背景に、バイオテック企業に対して希薄化を伴わない資金を提供することで、初期段階の資金ギャップに直接対応している。本プログラムは、民間VCからの調達額にして最大2倍のマッチングを行う仕組みであり、投資リスクの低減と資金流入の促進に寄与している。2025年時点では、Blackstone Life SciencesやEQTといったグローバル投資家を含む30を超えるファンドが参画し、約40社のバイオテック企業を支援しており、スタートアップエコシステムの活性化に向けた重要な施策となっている37。
同時に、戦略的イノベーション創造プログラム (SIP)38などのより広範な施策においても、ミッション志向かつ成果志向のイノベーションへの転換が進んでいる。政府は省庁横断での連携を主導し、ライフサイエンスを含む重点分野の優先順位づけにおいて、より積極的な役割を果たしている。
また、規制改革もイノベーションへのアクセスを加速させている。2023年12月には、日本がMRCT (国際共同治験)に参加する前に追加の国内第I相試験を原則として不要とすることで、追加の国内第I相試験要件が緩和された。これは、利用可能なグローバルデータおよび非臨床データが日本人被験者における安全性と忍容性を裏づけることができる場合に適用され、特に希少疾患、難治性疾患、重篤疾患、小児疾患などアンメットメディカルニーズの高い領域において追加の国内第I相試験要件が緩和された39。さらに2024年10月には、厚生労働省による追加のガイドラインが発出され、患者数が限られる希少疾患など例外的なケースにおいて、日本人データを伴わない承認申請が可能となった40。
こうした政府の取り組みは、変革の必要性に対する明確な認識を示している。初期段階の資金供給と、グローバルに開発された医薬品に対する重複的な国内試験要件の削減を通じて、日本はこの重要な転換点においてエコシステムの再構築に積極的に取り組んでいる。その際、利用可能なデータ、PMDA相談、および必要に応じた追加的セーフガードにより安全性を担保しつつ、基盤的な強みと新たなイノベーション時代の要請との橋渡しを図っている。
AIが再構築する研究開発パラダイム
この新たな環境で競争力を維持・強化するためには、既存プロセスの最適化にとどまらず、根本的に新たな研究開発パラダイムへの転換が求められる。この変革の中心にあるのがAIであり、それは単なる効率化のツールとしてではなく、治療法の発見と開発のあり方を形づくる中核的なケーパビリティとして位置づけられる。この変革はすでに始まっており、AIはすでに、研究開発バリューチェーンの全体にわたって導入され、生産性、スピード、成功確率 (PoS)において測定可能なインパクトをもたらしている。
3.1. サイエンティフィックAI: 研究開発パラダイムを根本から再構築するもの
ビジネスの現場では、生成AIの活用が業務効率化の手段として進みつつある。しかし、生成AIが最も大きなインパクトをもたらす領域は研究開発であるにもかかわらず、その重要性は十分に認識されていない。この領域での活用には、我々が「サイエンティフィックAI」と定義する、従来とは明確に異なるアプローチが求められる。これまでのオペレーショナルAIが「いかに自社製品を効率的に開発するか」という問いに焦点を当てるのに対し、サイエンティフィックAIは、イノベーションそのものの核心、すなわち「いかに革新的な、またはより優れた製品を創出するか」という問いに直接向き合うものである41。サイエンティフィックAIを活用することで、化学、生物学、臨床科学といった基礎科学データの解析が進み、ターゲット特定や分子設計を加速して新たな仮説が創出できる。これによりPoSを高め、持続的な競争優位を構築する。
変革のポテンシャル: 研究開発生産性の倍増
サイエンティフィックAIがもたらす価値は、単なる漸進的な改善にとどまらず、研究開発の生産性を倍増させ得る非連続な変化である。AIを創薬プロセスに深く組み込むことで、以下のように可能性の幅が大きく広がる。
- 創薬の試行回数 (ショット・オン・ゴール)の倍増: より高度な探索モデルにより、研究者は最大4倍42のターゲットおよびリード化合物から優先順位を付けることが可能となり、実行可能な機会の幅を拡大しつつ、各プログラムのPoSを向上させることが可能になる
- PoSの倍増: 候補分子および生体相互作用に関する学際的理解が深まり、より確度の高い候補の選別・移行が可能となる。サイエンティフィックAIは、候補化合物に対するより深い理解と高い確度をもって、開発パイプライン全体のトランスレーションを促進し、PoSを向上させる42
- 研究スループットの倍増: AIが創薬の「DMTAサイクル (Design: 設計、Make: 合成、Test: 評価、Analysis: 解析)」を加速し、研究のスループットを2倍42にすることで、検証済み化合物をより迅速に創出する
- 上市あたりコストの半減: サイエンティフィックAIは、より効率的な実験および開発ワークフローを通じて、上市1件当たりの研究開発コストを最大50%削減し得る。その結果、同じ資本基盤で最大2倍の製品を追求することが可能となる42
サイエンティフィックAI のコアケーパビリティ
サイエンティフィックAIは、3つのコアケーパビリティを通じて、研究開発における長年の課題に対応し、こうした可能性を実現する41。
1. 科学領域間の縦割り状態を横断する能力
従来、科学の進展はデータや手法が分断されていたことで制約を受けてきた。サイエンティフィックAIは、ドメインを横断して活用できるマルチモーダル基盤モデルを通じて、そうした障壁を解消する。このようなモデルは、分子構造から細胞画像に至る多様なデータを共通の数学的表現 (エンベディング)43へと変換し、分野を横断した知見の統合を可能にする。例えば、創薬向けに開発されたモデルは化学合成へと応用可能であり、植物病害の検出に用いられるコンピュータビジョン技術は、ヒト細胞におけるがんの特定にも活用できる。
2. テキストと言語を超えた活用
生成AIの多くはテキストを対象としているが、研究開発において最も価値の高いデータは非テキストであり、画像、分子構造、オミクスデータ、計測機器データなどが含まれる。サイエンティフィックAIは、これらのデータで学習された基盤モデルを活用している。AlphaFold 344やRoseTTAFold45 といったブレークスルーはタンパク質工学を大きく前進させており、Uni-Mol46のようなモデルは 分子特性の予測や新規化合物の生成を可能に している。
3. 反復的なクローズドループの運用
サイエンティフィックAIの真価は、予測と実験を接続するクローズドループ型システムにある。AIモデルが仮説を生成し、それを自動化ラボで検証し、その結果が次の予測精度向上のためにフィードバックされる。この継続的なDMTAサイクルは独自データによって強化され、重要な競争優位となる。このアプローチは徐々にエージェント型AIへと進化し、システムが研究者を能動的に支援するとともに、非効率な実験の削減や、最適な次のアクションの提示を行えるようになる (図表11)42。
AIとリアルワールド実験のクローズドループの反復が、成果創出の鍵となる
サイエンティフィックAIの実装: 複雑な生物学の解明
業界では、AIファーストバイオテック企業がもたらす前例のないスピードと効率をすでに目の当たりにしている。例えば、Insilico Medicineは、PandaOmicsやChemistry42を含むエンド・ツー・エンドの生成AIプラットフォームを用いて、特発性肺線維症 (IPF)に対する新規ターゲットとしてTNIKを特定し、対応する低分子阻害剤を設計した。この開発プログラムは、通常2.5年から4年を要するプロセスであるターゲット発見から第I相試験までを30カ月未満で進めており、かつ従来のコスト (前臨床段階で約260万ドル)と比較すると極めて小さいコストで実現された。2026年5月現在、同化合物は第IIa相試験を完了し、用量依存的な肺機能 (FVC) 改善を示すとともに、後期試験に向けて規制当局と協議を開始している。これは、サイエンティフィックAIが創薬をすでに加速させていることを示している47。
3.2. AIを研究開発バリューチェーン全体に組み込む
このAI革命の力を最大限に活用するためには、日本の組織は研究開発バリューチェーン全体にわたり、的確かつ戦略的な取り組みを行う必要がある。本稿では、6つの戦略的アクションを提案する (図表12)。これらを組み合わせて実行することで、生産性、スピード、PoSに相乗的な効果が期待される。
更なる生産性向上に向けたR&Dにおける6つの戦略的アクション
アクション1: 疾患理解とターゲット特定
課題: 新規創薬ターゲットの特定は、従来、分断されたデータと複雑な生物学に対する手作業での解釈に依存しており、時間と労力を要してきた。その結果、検討可能な仮説数が制約され、生物学的根拠が十分でないケースも多いAIによる解決策: ターゲット同定の将来像は、AIと科学者が協働して疾患メカニズムと治療機会を解明するエージェント型のディスカバリーシステムである。中核となるサイエンティストエージェントが、文献、オミクスデータ、画像、ナレッジグラフを含むマルチモーダルデータを統合し、大規模にターゲット仮説を生成する。これらのシステムは、因果的な生物学的パスウェイを特定し、ターゲットの優先順位づけを行い、実験的検証を導く。一方、科学者は継続して戦略の方向づけと重要な意思決定の検証を担う。
インパクト: 有望なターゲットおよびリードの特定数を従来の4倍以上48に拡大する。
アクション2: リード化合物の同定と 優先順位づけ
課題: リード化合物の探索および優先順位づけは、依然として主要なボトルネックである。従来の手法は時間を要し、既知の分子空間に限定されるうえ、重要な特性評価には多大なコストを伴うウェットラボでの実験を必要とする。
AIによる解決策: AIは、探索可能な分子空間を拡大してより多様な候補を生成し、創薬困難なターゲットにも対応することで、リード化合物の同定を変革している。AIモデルが大規模な仮想ライブラリを迅速にスクリーニングし、結合親和性、毒性、安定性、製造可能性を含む複数の特性を並行して評価することで、より高品質でPoSの高いリード化合物を同定する。自動合成・試験と組み合わせることで、このクローズドループシステムがディスカバリーを大幅に加速する。
インパクト: 候補評価は20~40倍高速化し、難易度の高いターゲットを含め100以上の新規分子の同定が可能となる。さらに、アクティブヒットは約120%増加し、前臨床段階におけるPoSが大幅に向上する49。
アクション3: 適応症の選択
課題: 適応症の選択は重要かつリスクの高い意思決定であるが、限られたデータやバイアスに依存しやすく、機会損失につながりやすい。
AIによる解決策: 大規模なリアルワールドデータ (レセプトデータ、電子カルテなど) に機械学習を適用することで、疾患間の潜在的な関係性を明らかにすることができる。数百万人規模の患者ジャーニーをAIが解析することで、分子の作用機序に関連する臨床的・生物学的に近接した適応症を特定し、適応拡大の機会の優先順位づけとPoSの予測を支援する。
インパクト: 高ポテンシャルな適応症を体系的に特定でき、正味現在価値 (NPV)を20%以上向上させる可能性49。これにより、適応症選択は属人的な経験や判断に依存したプロセスから、根拠に基づく意思決定へ進化する。
アクション4: 臨床試験デザイン
課題: 臨床試験の設計は複雑なトレードオフを伴い、対象患者集団、評価項目、比較対象の選択を誤ることで、失敗に至るケースが多い。
AIによる解決策: AIを活用した臨床試験シミュレーションは、リアルワールドデータ、過去の試験データ、分子レベルの知見を統合し、異なる患者集団が治療にどう反応するかをモデル化する。チームは臨床試験の開始前に、数百に及ぶ試験シナリオをインシリコで検証し、適格基準、エンドポイント、試験デザインを最適化することができる。
インパクト: シミュレーションを起点とした設計により、PoSが5~10ポイント向上し、各フェーズの 期間を10~15%短縮できる。さらに、サンプルサイズを10~30%削減し、試験開始までのリードタイムも短縮することで、全体のNPVが大幅に向上する49。
アクション5: 臨床試験オペレーションの高度化
課題: 臨床試験オペレーションは複雑かつ非効率であり、不適切な施設選定、立ち上げの遅延、データの統合・連携不足がパフォーマンスの制約要因となっている。
AIによる解決策: AIは以下の2つの相互補完的 なケーパビリティを通じて臨床試験の実行力を高める。
- AIによる施設選定モデル: オペレーション、患者、臨床試験責任医師に関する100以上の変数を分析し、被験者登録のパフォーマンスを予測する
- 臨床試験マネジメントコパイロット: 臨床試験システム全体のデータを統合し、リスクの特定、オペレーション上のインサイトの抽出、リアルタイムの意思決定支援を行う
インパクト: 試験の立ち上げは30~40%高速化し、施設選定の精度は最大4倍に向上する。スケジュールの予測精度も大幅に改善し、半数以上の試験において計画との差異が四半期以内に収まるようになる49。
アクション6: 薬事文書の作成・申請、 および審査対応
課題: 規制関連文書の作成は依然として手作業に大きく依存しており、多くの時間を要するため、申請および市場アクセスの遅延要因となっている。AIによる解決策: エージェント型共同執筆プラットフォームが、治験総括報告書の初稿を自動で作成し、メディカルライターや薬事の専門家がプロセスに関与し続け、レビュー、精緻化、検証を担う。こうしたハイブリッドモデルは、AIによるスピードと一貫性に専門家の確認を組み合わせることで、重要度の高い薬事文書の精度と、比較的簡易なコンテンツの柔軟性の両立を実現する。
インパクト: メルクの公表事例では、人間が完全にレビューした治験総括報告書の初稿の作成時間が平均180時間から80時間へと短縮されたうえ、データ、メッセージング、引用、用語、タイポグラフィなどの領域において、エラーが50%削減され、初稿の品質が向上した50。
AI主導イノベーションの大規模展開に必要な要素
AIが研究開発を変革する可能性は極めて大きいが、その価値の実現はいまだ困難である。最近のMITの研究は、この厳しい現実を示している。例えば、企業向け生成AIに数百億ドル規模の投資が行われているにもかかわらず、最大で95%のパイロットプロジェクトが測定可能なROI (投資対効果)を生み出せていない51。これは技術の問題ではなく、本質的には実行の課題である。成功には、技術にとどまらず、戦略、オペレーティングモデル、人材、さらには広範なイノベーションエコシステムを横断する包括的なアプローチが求められる。これらの推進要素を適切に整備した組織は、一般的な落とし穴を克服し、AIの潜在能力を最大限に引き出すことができる。
AI変革が失敗する理由: 回避可能なギャップのパターン
多くのAI変革は、限られた共通の要因によって繰り返し失敗しており、これらは大きく戦略・構造面のギャップと、実行・デリバリー面のギャップに分類できる。
- 戦略・構造面のギャップ: 多くの取り組みは、事業上の優先事項と十分に連動することなく、個別のパイロットとして進められている。その結果、価値創出を目的とした変革ではなく、単なるテクノロジー実験にとどまっている。また、AIをIT部門内に閉じ込めるオペレーティングモデルや、研究開発など高インパクト領域への資金配分不足が、こうした状況を助長している
- 実行・デリバリー面のギャップ: 強固な戦略が存在していても、実行は停滞しがちである。AIツールはレガシーシステムと十分に統合されておらず、そのアウトプットには大規模な手動検証、いわゆる検証コストが必要となり、生産性向上の効果を相殺している。ワークフローの再設計が行われなければ、活用は進まず、データのボトルネックがモデルの継続的な改善を制約する
- データプラットフォーム、クラウドプロバイダー、AI専門企業との提携を通じた、差別化された能力へのアクセスの確保
- プラットフォーム型取引やAI活用資産によるパイプラインの強化・刷新
- テクノロジー企業との深い共同創出による研究開発エンジンの変革
- ベンチャー投資およびインキュベーションを通じた将来のエコシステムの形成
- 高度な専門領域において、AIと効果的に協働する専門家
- AIを活用したワークフローを統合・運用するAI拡張型プロフェッショナル
- インテリジェントシステムを設計・管理するAIネイティブ人材
AI主導のイノベーションを実現する4つの要素
先進的な成功企業は、AIを単なる技術導入ではなく中核的なビジネス変革として捉え、オペレーティングモデル、データおよびテクノロジー、エコシステムのオーケストレーション、人材という4つの相互に連関する要素を軸に成果を上げている。
1. アジャイルかつ価値起点のオペレーティング モデルへの転換
AI変革を成功させるには、縦割り化された組織構造や複数年にわたる「ビッグバン型」取り組みから脱却し、迅速な価値創出に焦点を当てたアジャイルかつ組織横断的なチームへの移行が求められる。優先的に取り組むべき目標は数年をかけて完璧なデータ基盤を構築することから、数カ月以内に実用最小限のソリューションを提供することへとシフトする。Quarterly Value Releases (QVR)などのアプローチにより、短サイクルで試行と改善を繰り返し、基盤技術を業務プロセスに組み込みながら、測定可能な成果に基づいて取り組みを推進していく。
日本において、この転換は特に重要である。従来の合意形成型の意思決定や階層的な承認プロセスは、反復サイクルを遅らせ、AIの価値を迅速に引き出すことを困難にしている。先進的な組織は、こうしたボトルネックを回避して実行を加速するために、小規模で権限を持つチームの試行を進めている。
2. AIのスケール展開を支えるデータおよび テクノロジー基盤の構築
価値は個別のレイヤーで生まれるのではなく、インテリジェンスをエンドユーザーへと接続する統合された5層のスタックを通じて創出される。すなわち、ハードウェア/インフラ、データ、モデル、オーケストレーション/アプリケーション、インターフェースである。これらのレイヤーを連携することで、AIを断片的でなく、ワークフロー全体に組み込み、活用できるようになる (図表13)。
事業へのインパクトは各レイヤーで生み出されるが、価値を最大化するにはエコシステム 全体をオーケストレーションする必要がある
日本においては、このフルスタック統合の実現は重要な課題である。多くの組織は依然として断片化されたレガシーな「ガラパゴス」システムに依存しており、2025年までにミッションクリティカルなシステムの約60%が構築から約20年超になると見込まれている52。これによりベンダーロックインが生じ、データ統合が制約されている。また、クラウド導入も遅れており (日本ではワークロードの約34%に対し、米国/EUでは約43%)、スケーラビリティの制約となっている53。同時に、テック人材の約70%が社外に存在しており54、外部委託ITへの依存によって社内でのオーケストレーション能力が十分に発揮されていない。その結果、サイロ化されたSaaS導入や個別的なAIユースケースにとどまり、AIの取り組みはスケールせず、局所的なものにとどまっている。これに対し、先進企業はデータ基盤の近代化、社内能力の構築、さらにはエンド・ツー・エンドのパートナーシップの深化を通じて、スタックの統合とAI導入の加速を図っている。
3. 単なる提携ではなく、エコシステムのオーケストレーションへ
AIがバイオ医薬品分野を再構築する中、先進企業は個別の取引から脱却し、4つの戦略的意図に基づくエコシステムのオーケストレーションへと移行している。
このうち、4番目のベンチャー投資およびインキュベーションの領域においては、コーポレート・ベンチャー・キャピタル (CVC)が重要な役割を果たし、段階的な投資と戦略的オプションの確保を可能にしている。例えば、イーライリリーのベンチャー部門 (運用資産約45億ドル)55は新興バイオテックおよびAIプラットフォームに幅広く投資しており、MicrosoftのM12ファンド56は自社エコシステムと整合するAIネイティブなヘルスケア企業を支援している。資本はますます、単なる財務的リターンのためだけではなく、早期アクセスの確保や技術の方向性に影響力を高める手段として投下されている。
日本企業は従来、慎重かつ取引志向のパートナーシップを採用してきた。エコシステムのオーケストレーションへと移行するためには、より積極的な共同創出、より早期段階からの関与、そして新興技術における不確実性への許容度を高めることが求められる。
4. グローバル競争力を持つ人材とリーダーシップの構築
最終的に、最も重要な推進要素は人材である。テクノロジー変革の成功は、組織が人材および働き方をどのように進化させるかにかかっている。AIが定型業務を自動化するにつれて、人間の役割は戦略的思考、科学的判断、創造的問題解決へと移行する。役割も変化しつつあり、例えば臨床科学者は試験設計の最適化にAIシミュレーションを活用する機会が増えており、オペレーションチームはリスクやパフォーマンス管理に予測ツールを活用している。
このような変化には、3種類の補完的な人材タイプの育成が不可欠である。
この人材基盤の構築は急務である。4~5年ごとにスキルの更新が必要とされる中、継続的な学習が不可欠となっている。また、リスキリングは外部採用と比べて大幅に効率的であり、最大で70%速く、かつ低コストで実施できる57。加えて、生産性および人材定着の向上という測定可能な成果にもつながる。
日本においては、これはまったく新しい課題ではなく、AI導入の加速に伴い、一層緊急性を増している既存のギャップである。特に深刻なのは、トランスレーター人材、すなわち科学的専門性、データ・アナリティクスのケーパビリティ、およびビジネス上の意思決定をつなぎ、テクノロジーを実践的なインパクトへと転換できる人材の不足である。この課題に早急に対応するためには、既存の人材がこうした橋渡し役を担えるよう支援するリスキリングに加え、より柔軟な働き方の導入や、アカデミアおよびグローバルパートナーとの連携強化といった、新たな人材獲得アプローチが求められる。
今後の道筋:日本のイノベーションエンジンの再構築
日本の課題は、科学的能力にあるのではない。日本は強固な研究基盤を有しているものの、それを波及力のあるイノベーションや競争力のあるパイプライン、さらにはグローバルなリーダーシップへと転換しきれていないことに課題がある。AI主導の研究開発とエコシステム競争によって定義される世界においては、漸進的な変化では不十分である。日本は市場の魅力を高め、実用化を加速し、次世代能力を構築するとともに、AIを大規模に組み込むための迅速かつ大胆な行動を取る必要がある。
日本のイノベーションエンジンの再構築は、単一のステークホルダーの取り組みだけで実現できるものではない。政府、バイオ医薬品・バイオテック企業、投資家、アカデミアといったエコシステム全体にわたる連携したアクションが不可欠であり、それぞれが明確で相互に補完し合う役割を担うことが求められる。図表14は、変革の推進に向けた4つの戦略的アクションにわたって各ステークホルダーの取り組みを整理し、「中核的な推進役」「主要な貢献役」「補完的な支援役」のいずれを担うかを示している。
日本のイノベーションエンジンの再構築には、エコシステム全体にわたり オーケストレーションされた協働が不可欠
成功の鍵は、各ステークホルダーが連携して動き、互いに強化し合えるかにある。以下に、各戦略的アクションと、その推進に向けて各ステークホルダーが強化すべき役割について概説する。なお、各アクションにおいて、役割の重要度が高い順に記載している。
戦略的アクション1: 魅力的なイノベーション市場としての日本の再構築
日本は、予見可能性の向上、アクセスの迅速化、そしてイノベーションに対する価値提案の強化を通じて、自らをグローバルイノベーションにおける優先市場として再定義する必要がある。
政府: 予見可能でイノベーションを適切に評価する価格設定と、迅速な規制パスウェイを支える政策をさらに高度化することで、市場の魅力を高める。加えて、臨床データおよびリアルワールドデータへのアクセス拡大により、価値実証と価格決定の基盤を強化する。
バイオ医薬品・バイオテック企業: 薬価政策の進化に向け、同業他社と連携し、政府の議論のパートナーとなる。また、グローバルイノベーションの日本市場への導入を加速するとともに、価値を実証し、イノベーションを促進する市場環境の整備を支える臨床的・経済的エビデンスを積極的に創出する。
投資家/アカデミア: 補完的に市場の魅力を強化することができる。投資家は、グローバル資産の国内開発・上市を支える資金提供に加え、患者および医療従事者向けサービスへの投資を通じて、革新的な治療へのアクセス改善を支援する。アカデミアは、臨床およびリアルワールドエビデンスの創出を通じて、価値実証と導入を強化する。
戦略的アクション2: イノベーションへの活力注入とトランスレーションの加速
日本は強固な基礎科学を生み出しているが、科学的発見を投資可能かつグローバルに競争力のあるパイプラインへと転換することに課題を抱えている。
バイオ医薬品・バイオテック企業: 基礎研究の成果をパイプラインへと転換する中核的な役割を担う。研究開発全体にAIを組み込み、自らのイノベーションモデルの変革を進めるとともに、革新的な資産や技術プラットフォームの構築に向けたCVC投資や、パートナーシップを含む外部連携を通じて、イノベーション能力を拡張する機会を模索する。
投資家: シードおよびシリーズA段階の投資を拡大し、グローバル投資家との連携を強化して日本をグローバルなイノベーションエコシステムに接続する。加えて、日本発のイノベーションについて、グローバルでの開発・臨床試験・事業化を支援する。
政府: 科学的発見と投資を結びつけるインフラを強化することで、トランスレーションを加速する。具体的には、バイオサイエンス、インキュベーターへの資金提供、初期段階ベンチャーへの共同投資、大学からのスピンアウトを促進するための技術移転の改善が含まれる。さらに、投資可能な資産のレジストリやイノベーションハブといった共有プラットフォームは、有望な研究の可視性を高めることができる。
アカデミア: 技術移転機能の強化、バイオ医薬品・バイオテック企業や政府と連携したキャンパス型イノベーションハブの設立と拡充、そして産業界や投資家との協業深化を通じて、有望な研究成果の事業化を推進し、研究から商業化への橋渡しを加速する。
戦略的アクション3: 起業家精神と次世代能力の育成
目標は単に人材を配置転換することではなく、AIの活用が進み、学際的な連携が求められる環境において、イノベーションを推進できる人材基盤を構築することである。
バイオ医薬品・バイオテック企業: 次世代人材の育成と活用の中核を担う。グローバル人材の獲得、異業種間への出向、そしてイノベーションハブ間でのローテーションを通じて、AI、データサイエンス、およびトランスレーショナル研究開発におけるケーパビリティを構築することが、競争力の強化につながる。科学・データ・ビジネスを橋渡しする「トランスレーター」的役割を育成することは、実行と意思決定を改善するうえで鍵となる。
アカデミア: 科学教育のより初期段階から産業界との接点を拡大することで、起業家精神と学際的能力を備えた人材の育成において重要な役割を果たし得る。大学は、産業界でのインターンシップ、共同研究プログラム、事業化プロジェクトを通じて、若手研究者に実践的な機会を提供し、実務経験と起業家マインドセットを醸成することが期待される。
政府: 国際的な経験機会と学際的なトレーニングを通じて、ケーパビリティ構築を推進する。これには、主要なバイオテックおよびAI拠点との海外フェローシップや交換プログラムへの資金提供が含まれ得る。また、生命科学・データサイエンス・ビジネスを統合した教育を支援し、分野横断的かつ 起業家的なキャリアパスを一般化することに寄与する。
投資家: グローバル規模で成長を志向する創業者を支援し、科学、オペレーション、そして商業面の専門知識を兼ね備えたリーダーシップチームの構築を後押しすることで、起業家文化を強固なものにすることができる。国際的なネットワーク、経験豊富な事業運営者、そして国境を越えた展開へのエクスポージャーを通じて、新興企業が国内のエコシステムの枠組みを越えて成長できるよう支援する。
戦略的アクション4: AIおよびデータを基盤としたイノベーションエコシステムの構築
AIは、個別のパイロットプロジェクトの集合ではなく、中核的なインフラとして位置づける必要がある。そのためには、エコシステム全体にわたるデータ、ガバナンス、能力への協調的な投資が必要である。
政府: データインフラとガバナンスを通じて、エコシステム全体におけるAI導入の基盤を提供する。主要な領域には、臨床データおよびリアルワールドデータへの安全かつスケーラブルなアクセスの実現、プライバシーとデータ共有の基準の確立、そして大規模なモデルの開発と展開を支援するための医療におけるAI利用に関する規制の明確化が含まれる。
バイオ医薬品・バイオテック企業: 研究開発バリューチェーン全体でAIを運用化する。これには、創薬、開発、臨床試験設計、および規制ワークフローにAIを組み込むことが含まれる。社内ケーパビリティの構築は引き続き不可欠であるが、既存および新興のコンソーシアムを活用してスケーラブルなプラットフォームを共同開発することで、インパクトを最大化できる。こうした業界横断的な協働への積極的な参加は、将来のイノベーション推進においてますます重要となる。
投資家: AIネイティブなバイオテック、データ、およびインフラストラクチャ・プラットフォームへの資金提供を通じてエコシステムの形成を加速する。また、バイオ医薬品・バイオテック企業、アカデミア、テクノロジープレーヤー間のパートナーシップを促進し、多様な技術とケーパビリティを結集して新たな組み合わせを生み出すことで、ヘルスケア・ライフサイエンスエコシステム全体にさらなるシナジーを創出する。
アカデミア: 日本の科学的な深みと高度な計算能力を組み合わせることで、AI主導のイノベーションを強化する。テクノロジー企業との連携を深化させ、生物学とAIを統合した共同研究プログラム28を通じて、差別化された発見を生み出すと同時に、次世代の学際的な科学人材の育成を支援する。
同時並行での推進: 短期的なモメンタムと長期的な構造変革
これら4つの戦略的アクションを実現するためには、相互に連動する2つの時間軸での取り組みが不可欠である。短期的には、モメンタムの創出と主要なボトルネックの解消が優先される。具体的には、明確な政策シグナルの提示、規制パスウェイの迅速化、初期段階の資金供給、重点的なAIパイロットの実施、そして人材およびエコシステムに関連するプログラムの立ち上げを通じて実行する。こうした初期的な取り組みは、二重の役割を果たす。すなわち、迅速に価値を生み出すと同時に、グローバルパートナーを惹きつけ、より困難な改革を継続するために必要な信頼性を構築する。
中長期的には、構造的な変革とスケーリングへと重点が移る。これには、予見可能でイノベーションと連動した価格制度の確立、初期段階およびプラットフォーム型イノベーションの持続的なパイプラインの構築、グローバルに競争力のある人材の育成、そして研究開発バリューチェーン全体におけるAIおよびデータの中核インフラとしての定着が含まれる。この構造的基盤がなければ、投資家やイノベーターは日本市場が開かれた市場であり続けられるかに疑問を抱き、短期的な成果はいずれ頭打ちとなる。
日本には、これらの取り組みを段階的に実行する余裕はない。待つことのコストは、失われた時間ではなく、失われた競争的地位として現れる。日本の成功は、短期的な成果を確実に生み出しながら、並行して長期的な競争優位を支える変革基盤を構築できるかにかかっている。