夏季オリンピックで最も盛り上がる種目のひとつが陸上の400mリレーだろう。この種目は、古代ギリシャの使者が伝言のための棒をリレーでつないで送り届けたことに由来し、1912年のストックホルムオリンピックで正式種目として登場した。男子ではアメリカが圧倒的な強さを誇っていたが、21世紀に入ってからはアメリカチームが優勝したことは一度もない。陸上個人種目の金メダリストが揃っているにも関わらず。
何が問題なのか。その理由はいたって単純だ。バトンパスが上手くいっていないのである。東京2020オリンピック競技大会でアメリカチームは予選敗退となったが、そのバトンパスについて『ニューヨーク・マガジン』は「彼らがバトンの受け渡しをする姿は、世界最速の選手というより、ドタバタ喜劇の『キーストン・コップス』に出てくる警官たちのようだった」と形容した1。
バトンパスがスムーズに行われると、リレーのタイム合計は、4人の選手の100m 走のベストタイムの合計よりも2~3秒速くなる場合がある。
業績向上のために改善を重ね、成功を収めてきたCEOの場合、キャリアの集大成として後継者にバトンを渡す際に自分がドタバタ喜劇の警官のようになりたいとは思わないだろう。とはいえ、ほとんどのCEO にとって事業継承は初めての経験で分からないことも多く、いざその時期が近づいてくると不安を感じるかもしれない。しかも、オリンピック選手は観客が会場に入る前に、タイミング、ペース配分、テクニックやコミュニケーションを幾度も繰り返し練習できるが、CEOはたった一度きり、衆人環視のストレスにさらされながら行わなければならないのだ。キャタピラーの元CEOジム・オーウェンズは、「結局、CEOの役割で一番難しいのは、辞めることだ」と言って いる。
卓越したCEOは、CEO継承の際に自分の評判がどうなるかは気にせず、その変化が今後の組織にどのような影響を与えるかに重点を置いて考える。陸上競技のように、バトンの受け渡し目標は、次の人物が素晴らしいスタートを切り、バトンが渡された後もさらに優れたパフォーマンスを発揮できるようにすることである。ここでバトンを落とすと大きな代償を払うことになる。経営幹部の交代が効果的に行われない場合、S&P1500企業全体で年間で約1兆ドル相当の市場価値を消失する可能性がある2。
マイクロソフトのCEOサティア・ナデラは、CEO継承にあたって、組織全体を俯瞰した視点を持つことの重要性を説いている。「インドの公務員だった父は、常に『優れた制度の策定者は、後継者が自分たちよりも結果を出せるようにするものだ』と言っていた。私はまさにその通りだと思う。マイクロソフトの次のCEOが私以上の成功を収めることができれば、私がやってきたことは正しいことになる。失敗した場合、私が間違っていたということになるだろう」
CEO継承の具体的な進め方は状況によって異なるが、そろそろ潮時と考え始めたCEOにとっては、以下の4つがベストプラクティスとなる。
- いつ退任するのかを自分でハッキリ決める
- 後継者準備の責務を全うする
- 後継者に丁寧にバトンを渡す
- 自分の次章に思いを馳せる
いつ退任するのかを自分でハッキリ決める
「CEOに就任した時、私は役員会に、もし自分が健康で、ステークホルダーに許される限り、10年はやるつもりだと伝えた」、とシンシナティ小児病院メディカルセンターの元CEOマイケル・フィッシャーは述べた。CEOの中には、彼のように何年後に辞めるのかを考えて就任する人もいるだろう。フィッシャーは結局12年近く在職した。これは優れた業績を上げたCEOの平均在任期間11.2年をわずかに上回る期間である。ちなみに、大企業のCEOの場合、平均在任期間は7.3年と大幅に短い3。
引き際を見極めることが重要である。上質なワインのように、時間と経験を重ねるにつれCEOとしての深みは増していく。しかしやがて停滞期の前兆が様々な形で現れる。四半期ごとに業績を上げるという評判を守りたい願望が、大胆な行動や将来への投資に尻込みさせるようになる。あるいは在職期間が長く、戦略を一通り実行し終えたCEOが、成長の鈍化を避けようとして、組織にとってプラスになりそうもない大規模で複雑な買収に手を出す。こうした行動の裏には、増大する不安や動揺を和らげたいという利己的な願望が潜んでいることが多い。
卓越したCEOは、去就に自分のエゴによる判断が入り込む余地があってはならないと理解している。停滞を乗り越えるために、多くの場合、会社は新しい方向へ軸足を移す必要があるが、現職CEO がその移行をリードするのに最適な人物であるとは限らない。オーストラリア4大銀行の一つ、ウエストパック銀行の元CEOゲイル・ケリーは、顧客中心の戦略が確立し、デジタル化の進む未来に向かって組織を導くのに適した後継者の準備が整ったところで、自ら退任することを決めた。ソニーの元CEOの平井 一夫は、変革期のトップとして自分は適任だが、その後の安定期のトップとしては不向きだとも感じていた。
他人の経験は参考にはなるものの、退任のタイミングを見極めるのは非常に個人的で難しい決断だ。ゴールドマン・サックスの元CEOロイド・ブランクファインは「自分の引き際を決めるのは非常に難しい」と語る。「会社が苦境に立っている時には辞めるわけにはいかず、好調な時は辞めようと思わない4」。メドトロニックの元CEOで、現在はハーバード・ビジネス・スクールのエグゼクティブフェローであるビル・ジョージは、CEOの在任期間に焦点を当てた講義を行っており、CEOが自らの引き際を知るために、定期的に以下の質問を自問することを提案している5。
- CEOの仕事にまだ充足感や喜びを感じるか
- 常に学び続けており、自分が試されていると感じているか
- プライベートに考慮すべき新たな状況変化はないか(家族や自身の健康問題など)
- 社外に千載一遇のチャンスが存在していないか
- CEO継承の準備はどの程度進んでいるか(後継者の育成にまだ多くの時間が必要か。次の時代をリードできる人材を確保できているか)
- 新体制への移行を自然に進める節目となるマイルストーンはあるか(大型買収の事業統合完了、重要な新製品の上市、長期プロジェクトの完遂など)
- 業界が劇的に変化していて、新しい視点を入れたほうが会社にとってよいか
- 自分の次のステップが想像できないから今のポジションに留まっているのか
優れたCEOは、これらを自問しながら、前もって取締役会に退任時期を明示し、最後まで責任を果たす。「退任時期を明確にしない限り、社内で後継者を育成し、CEO継承を円滑に進めることは難しい」とハーバードのジョージは言う6。
通常、CEOの継承には少なくとも2年はかかる。「ワインを飲むのは1日でも遅すぎるよりも、1年早く飲む方がよい」という格言は、CEO継承にも当てはまる。イントゥイットの元CEOブラッド・スミスはこう説明する。「2、3年ほど長くCEOを務め過ぎた友人たちがいる。私は彼らを見て『どうしてこうなることを予測できなかったんだろう』と思うのだ。ふと、全盛期を1~2年ほど過ぎたのに現役にこだわり、チームにとどまるアスリートたちのことを思った。誰しも『ああはなりたくない』と思うだろう。すなわち、自分自身に問うべきはただひとつ。自分で退任するその日を選びたいか、それとも誰かに決めてもらいたいか、だけだ」。
後継者準備の責務を全うする
成功するリレーでは、バトンを受け取る走者は、バトンが渡される前に走り始めるが、後継者の育成についても同じことがいえる。最終的にCEOを指名・解雇するのは取締役会の権限だが、卓越したCEOは、経営のバトンを引き継ぐにふさわしい人材を確保するために、在任中に取締役と協働して後継者計画を立てている。イントゥイットのスミスはこう回想する。「(イントゥイットの元会長でシリコンバレーの多くのCEOをコーチした)ビル・キャンベルが私を助けてくれた。私がCEOに着任したその日に『後継者計画は、あなたの交代と考えるのではなく、あなたのチームのリーダーシップ育成だと考えて欲しい。多くのCEO人材を育て上げた時、あなたにまだ退く意思がなかったり、逆に会社に辞めさせてもらえなかったりして、育てた人材が別の企業に移ることになったとしても、それはそれでかまわない。イントゥイットは優れたリーダーを輩出する企業として広く知られるようになるのだから』とアドバイスしてくれた」。
このアドバイスを踏まえ、スミスは在任中、四半期ごとに取締役会に後継者計画の進捗を口頭で報告し、年に一度は外部の専門コンサルタントに進行を務めさせ、後継者計画について公式の討議を行った。この場では、自社のニーズの変化や市場の変化を踏まえ、次期CEOに求める要件を見直し、取締役会による社内外の後継者候補のパイプラインの見直しも行った。「最終的に取締役会が後継者を選任するまでの11年間に、後継者計画について44回もの議論を重ねた。これで『あなたは後継者を育てたつもりかもしれないが、それを認めることはできない』と取締役会に言われるような事態を避けることができた」とスミスは述べる。
この後継者育成のプロセスに、HRを深く関与させることも重要となる。シンガポールを拠点とする多国籍金融サービスプロバイダーであるDBSのCEOピユシュ・グプタは語る。「私と人事の責任者は、CEOも含めたすべての主要ポストについて、どのような人材が適任か、100人ほどの候補者を挙げ、誰がすぐにその仕事をこなせるか、あるいは3~5年後に誰がその仕事を担えるか、個別にケースごとに管理した。それぞれが必要な経験を積み成長していくために、誰に移動が必要か、どこに配置すべきかなど、体系的な育成計画を立てた」。
スミスやグプタのように、取締役会やHRと緊密な連携を取ることができれば、CEOに必要な資質や最適な内部後継者候補を明らかにすることができる。「どんな大企業でも、トップの仕事を引き継ぐ有力な候補者が、少なくとも3人いなければ恥ずべきことである」とキャタピラーの元CEOのオーエンズは言う。また、ウエストパックのケリーは「私は幹部全員を育てるアプローチをとった。そうすれば自ずと2、3人の有力な後継者候補が現れると思っていた」と述べる。
ただし、このアプローチは、うまく管理しない限り、組織内に不協和音が広がりかねない。「競争を仕掛けるつもりはなくても、必然的にそうなってしまう」とケリーは付け加えた。この社内政治を抑制するための手段はいくつか存在する。ケリーの取った手段は単純明快であった。「社内政治にいそしむ候補者達に対して、その行動はすべて見られていると伝え、さらに『どんな形であれ、政治的な駆け引きをすることは許さない。候補者全員が最大限の力を発揮できるようにお互いにサポートするべきだ』と告げたところ、これが見事に功を奏した。また、私自身も誰にも肩入れせず、全員に平等に接することで信頼を得ることができた」と彼女は言う。また、最終的な決定権は取締役会にあるため、後継者候補に何も約束しないことも重要となる。
では後継者計画の終盤には、CEOとしてどう振る舞うべきか。オーウェンは自身についてこう述べる。「候補者を評価するのは取締役会なので、終盤期には1人ひとりに裁量権を与え、取締役会に対して戦略をプレゼンする場を設けた。また、投資家コミュニティに向けても、それぞれの担当部門の戦略をプレゼンしてもらった」。場合によってはバトンタッチまでの間に新しいポストに配置することで、有力な後継者候補の認知を高めることも考えられるが、新たなポストで足場を固め、優れた成果をあげるためにはそれなりに時間がかかるため、タイミングを誤ると有害無益になる。よって、CEO在任期間の最後の1~2年は、全社的なプロジェクト、委員会やコーチングプログラムに巻き込むかたちで後継者候補者を育成することが望ましい。
後継者計画におけるCEOの役割は、取締役会の適切な評価基準を決定し、それに基づく社内候補者リストを作成した時点で終了だ。その後は、取締役会が候補者と面接し、ヘッドハンティング会社や現職の役員を含む外部関係者を決定に関与させ、最終的な判断を下す。エコラボの元CEOダグ・ベイカーは、最終決定権を有する取締役会との関係についてこう語る。「最終的な決定権限は取締役会にあるため、取締役会がどんな判断を下そうとも、まったく異論を挟むつもりはなかった。ただし、それはあくまでも理性的な考えであって、感情論としては自分で選びたかったというのが本音だ。やはり人間なので」。
CEOとしての「最後の任務」は後継者育成だけにとどまらない。退任を決意した途端にアクセルから足を離すCEOもいるが、取締役会に退任の意向を伝えてから後継者が任命されるまで数年かかることを考えると、現職のCEOが最後まで責任をもって仕事をやり遂げなければ、組織としての競争力を失うことになりかねない。当たり前に聞こえるかもしれないが、ケイデンス・デザイン・システムズの元CEO のリップブー・タンはこう警告する。「様々な誘惑に駆られるが、大事なことからは決して目を逸らしてはならない」。
後継者に丁寧にバトンを渡す
取締役会で後任のCEOが選出されると、次は実際の引継ぎの段階である。陸上競技のリレーでは、スピードを維持したままスムーズにバトンを受け渡しすることが勝利の鍵となるが、そのためには、前走者は次走者がバトンを落とさないよう、そして握りやすいようにバトンを渡す必要がある。CEOの引き継ぎを成功させるにも、同様のことがいえる。
後継者がバトンを受け取りやすくする方法から始めよう。まず、後継者に対して、自分と同じようになる必要はないことを説明する。取締役会が次期CEOとして選んだのは、その人物に特別なスキルや特性が備わっており、今後、組織をけん引する適任者であると判断したからである。イントゥイットのブラッド・スミスは、CEOを退任する直前に、後任のササン・グダルジと共にスティーブ・ヤングを訪問した。ヤングは、アメリカンフットボールの伝説的なクォーターバック、ジョー・モンタナの後を継いだ選手である。スミスは、彼から有益な話が聞けるのではと考えたのだ。「スティーブは、最初の年はジョー・モンタナになろうと必死だったと打ち明けてくれた」とスミスは振り返った。「髪型や服装もジョーを真似た。ボールの投げ方さえも、ジョーと同じようなスタイルに変えようとして、過去最悪の半年を過ごした。しかし、やがてスティーブはジョーのようになろうとするのをやめ、その結果、自身の輝かしいキャリアを築いた。スティーブはササンの目をまっすぐに見て『あなたは、世界で一番のササン・グダルジにならないといけない』と言い、次に私を見て、『あなたは、彼が世界一のササン・グダルジになろうとするのを邪魔してはいけない』と言った」。
後継者にスムーズにバトンを渡すもうひとつの方法は、組織にとって重要な事柄に関して、その解決が困難ならばなおさら、引き継ぎ前に解決しておくことだ。シンシナティ小児病院メディカルセンターのフィッシャーは次のように述べている。「成功を収めたCEOには、何らかの圧倒的な強みがあるはずだ。退任の際にはその強みを生かして、人事の問題であれ、それ以外の問題であれ、後継者にしわ寄せが及ばないように、長年の難題を解決しておくべきである」。同時に、フィッシャーは行き過ぎないようにとアドバイスする。「重要な戦略的判断が求められる場合は、可能な限り、後継者から同意を得ておくべきである。今後、その決定内容から影響を受けるのは後継者なのだから」。
現CEOは後継者に早くスピードに乗ってほしいと願うが、引き継ぎが早すぎると不安定になり、時間がかかり過ぎると前任者が業務の妨げとなってしまう。陸上競技では、次走者へのバトンの受け渡しは「テイク・オーバー・ゾーン」と呼ばれる30mの区間で行わなければならない。CEO交代のテイク・オーバー・ゾーンは一般的に6~9カ月となり、以下の3段階に分けられる。
- 第1段階: 後継者が発表された後も、2~3カ月は主に現CEOが会社のかじ取りを行い、その間に、後継者が今後の会社経営について様々なステークホルダーから意見を聞いたり、自身の思考を深めたりできる時間を与える。またこの期間に、CEOとしての役割や責務をすべて後継者に共有し、過去に下した意思決定の根拠を示す。また、経営陣および組織の強みと弱みについて詳細に議論し、重要なステークホルダー( 大口顧客、投資家、規制当局、サプライヤー、地域のリーダーなど)に後継者を紹介してCEOの交代を報告する。さらに、後継者が会社の「運転席」に座る感覚を得られるよう、「セーフティネット付きの実習」の機会を提供する(幹部社員との会議、タウンホール、取締役会などでの役割など)。
- 第2段階: 後継者が正式にCEOに就任する日まであと2~3カ月の頃になると、現CEOは「助手席」に移って後継者をサポートする。この期間の意思決定について、イントゥイットのスミスは次のように述べている。「今後数カ月だけに影響する案件については、現CEOが決定する。一方で、組織再編や技術関連の大規模な施策など、後継者が今後長期にわたって関わり続ける案件ならば、後継者が意思決定を行うべきである」。この段階で、後継者に何かを教えたり、トレーニングしたりする立場から、支援する立場に方向転換する。そして何よりも、自身の部下に対して、新たなリーダーを協力的な態度で迎え入れるよう促すことが求められる。
- 第3段階: 後継者が正式にCEOに就任したあとは、すべての意思決定は新CEOに委ねられる。前CEOの仕事は、新CEOから依頼があれば助言したり、実務的なサポートをするのみになる。前CEOのオフィスを本社から離れた場所に移動するケースも多い。また、自分自身と自らのキャリアをたたえるべき時でもある。それは自惚れではなく、このような区切りが個人的および組織的な節目として重要だからである。シンシナティ小児病院メディカルセンターのフィッシャーは次のように振り返っている。「CEOとして最後の60日間、医療センターのほぼすべてのエリアを訪ね、各担当者に感謝の言葉を述べ、過去の出来事について彼らと懐かしく語り合った。それは私たち全員にとって有意義な区切りとなった」。
引き継ぎを開始する前に、後継者と協議して、引き継ぎの方法や具体的な計画、および意思決定を移行するタイミングなど、アプローチと方法を共同で形作ることが重要だ。また第3段階以降の体制についても明確にしておく必要もある。
多くの企業で、退任するCEOは会長職に就くよう求められる。これは、前CEOの経験と、新CEOの新たなアイデアや活力とを組み合わせようという意図であろう。ところが、実際には、前CEOが会社にとどまることは、たとえ会長という立場であっても良い結果とならないことが多い。新CEOへのアドバイスは、あるべき姿を再定義し、大胆な動きを早期かつ頻繁に行い、リソースをダイナミックに再配分することなのだが、これらの取り組みがすべて前任者の価値観に反していたり、また前任者がまだ指導的な立場にある場合、両者の間に摩擦が生じかねない。ある調査では、前任のCEOが会長職にとどまった場合、新CEOが早期に解任される可能性が、それ以外の場合と比べて2.4倍高い結果となっている。このような状況について、『ウォール・ストリート・ジャーナル』は次のように言及している。「前大統領が大統領執務室から去ったあとも、ホワイトハウスに住み続けたらどうなるだろうか7」。
「後任のために、しっかりと道を空けないといけない。これまで自分が行ってきたことへの批評と、これから大きく改善しなければならない点については、後任に任せればよい」と、キャタピラーのオーウェンズはアドバイスする。イントゥイットのスミスも、実際は会長を務めたが、次のように述べている。「CEOとしての最後の仕事は、後継者の成功をたたえることである。新任CEOのパフォーマンスについて、過去の亡霊がとやかく口出しするほど最悪なことはない。正直なところ、私はすっぱりと身を引くべきであったと今になってみれば思う。明らかな緊張関係があったわけではない。しかし、単に、前任のCEOは退場し、あとは後任者に任せた方がうまくいくと思う」。
もちろん例外がないとはいえない。例えば、優秀でCEOとして有望な人物であっても、ごぼう抜き人事によって経験の浅いリーダーが抜擢されたケースや、完了していない買収や統合に現CEOが深く関与している場合などは、この限りではない。
自分の次章に思いを馳せる
権力のある仕事から離れるのは非常に難しい。ハリー・トルーマン元米大統領は、任期終了直後に次のように語った。「2時間前までは一言発言しただけでも世界中でニュースになったが、今は2時間演説しても誰も聞いてくれない8」。ウエストパックのケリーは、退任が精神的に与える影響を次のように表現している。「多くの人にとって仕事はやりがいであり、存在意義であり、目的意識の源泉だと思う。そこから離れるのは本当に困難だ」。ゼロックスの元CEOアン・ミュルケーヒーは、さらにもう一つの困難にも直面した。「定年を迎える頃には、子どもたちも家を出て独立し、仕事と育児の両方から同時に卒業することになった9」。
私たちはCEOに対し、CEOという職を退く際に生じる心の底にある恐怖や欲求を認識し、正面から向き合い、乗り越えることを勧める。その中には、仕事から得られていた存在意義、権力、注目、称賛を失うことや、別の独立した優先順位を持つパートナーと家で過ごすことになることへの見通しも含まれる。「引退」という言葉が出てくると、年齢には勝てず、体力が衰える意味として捉える人もおり、精神的・感情的に受け入れ難いという側面もある。
このように、退任がトラウマを伴う場合もあるが、多くの場合、解放感の方が上回るようだ。「長年、CEOとして四半期財務報告に対する責任に囚われていた」と、ペプシコ元CEOインドラ・ヌーイは語る。「退任してからは、自分にどのようなプレッシャーをかけるかは自分で決められるし、もう何からも囚われることもない。自分がやりたいことを選べるのだ10」。
ヌーイが示唆したように、会社という枠から解き放たれ、人生はより活気にあふれ、興味深く、充実したものになることが明らかになるにつれ、どんな喪失感も長くは続かないことが多い。個人的な人間関係にもっと投資し、自らの経験を生かして様々な分野で貢献できるだろう。ICICI銀行の元CEOであるK. V. カマートによれば、「退任に適したタイミング」は、「社外でもっと面白いことができるかもしれないことを認識した時」だという。
卓越したCEOは、アメリカン・エキスプレスの前CEOケン・シェノルトが「奈落の底に落ちる」と表現する状況を避けるために、感情に向き合うだけでなく、対策も講じている。「(CEO退任後の人生について)目を背けず、きちんと考えることが非常に重要だ」。現実的に言えば、退任する前に自分にとって何が重要かを見極めるべきだということだ。シェノルトの場合、具体的に何をすることになるかは分からなかったが、「チャンスが巡ってきた時、私は準備ができていた11」。
自分にとって重要なことを見極めるというシェノルトの助言に加え、イントゥイットのスミスはCEOから退任することで、どんな寂しさに襲われるのかを想像した。「チームの一員である証のジャージがもう着られなくなることや、次世代のリーダーを育てる機会が無くなること、それから、成功を測る指標が無くなることを寂しく感じた」と彼は明かす。「だが、私はこれまで自分が残したものではなく、同じような意欲をかき立てられる、別のものにエネルギーを注いだ。何かから逃がれるのではなく、新しいものに向かったのだ」。
自分の興味が何であれ、CEOとして成功した人は、新しい人生で様々な機会を見つけることができるだろう。他の会社のCEOになることも選択肢となる人もいるかもしれない。家族、友人、趣味などを大事にする、静かな生活を望む人もいる。そして、2つの選択肢の間には、アドバイザー、投資家、取締役、起業家、政治家、公務員、慈善活動家、教師など、その他多くの選択肢も存在するのである。スミスの場合、出身地であるウェストバージニア州のマーシャル大学の学長に就任した。「毎朝ジャージを着て次世代の支援に向かい、改善に向けて物事が進んでいるか、指標を見て確認している」と彼はほほ笑む。「100%充実している」。
ほとんどの場合、次の行動への道はちょっとした実験から始まるだろう。これはCEOを退任する前からできることだ。シンシナティ小児病院メディカルセンターのフィッシャーは「退任後にフルタイムでなくても何らかの形で貢献できるように、ビジネス、市民活動や慈善活動、家族との時間など、複数の活動を始めた」。
フィッシャーの言葉には大事なヒントが隠されている。最初に見つかる機会は、自分にとって最善のものではないかもしれない。また、暇になることを恐れて、フルタイムではないからと、様々な活動に手を出しすぎて、首が回らなくなることもあるということを心に留めておきたい。ペプシコのヌーイは、CEO退任直後に「ノーと言えなくて、仕事を引き受け過ぎてしまった」と語った12。色々な活動を試し、新しい機会の中から長期的に関わり続けたいものがわかるまでには通常1年ほどかかる。
パートナーがいる場合は、自分にとって重要なことを共に探り、退任後の活動を模索することが望ましいだろう。そうすることで、短期的にはより深いつながりが生まれ、長期的には不満を軽減することができる。もし、パートナーが一緒に世界を旅するために首を長くして引退を待っているにもかかわらず、あなたがそのことをわかっていないといったことがないように、パートナーとは事前にコミュニケーションしておくことが重要だ。そうした会話を促すために第三者に間に入ってもらうという選択肢もある。メドトロニックのジョージは、「妻のペニーと私は、メドトロニックを退職する半年前にカウンセラーとともに、自分の退職後の生活について話し合ったことで、お互いの理解を深めることができた13」と語った。
長い目で見れば、CEOとしてのキャリアは人生の1つの章に過ぎない。次の章に進むに際して、「計画を立てないことは、失敗するよう計画するのと同じこと」という格言が当てはまるだろう。だが同時に、企業変革プロジェクトのように計画を厳格に実行しようとすると、自分の首を絞めることになってしまうかもしれない。ワクワクするような機会が予想外の所からやってくることもある。偶然の素晴らしい出会いや発見に心を開いておこう。また、これまでの人生での成功を支えた継続的な学び、大胆さ、本物であろうとする姿勢、サーバント・リーダーシップなどが今後も役に立つことを忘れないでいたい。
優秀なCEO は、突き詰めれば、自らの役割を、前の世代のリーダーから受け継いだものを、さらに優れたものにして次の世代に手渡す、継続的な組織リレーメンバーの一員と見なしている。自分が次にどこに向かうのかを心得たうえで、適切な時期に適切な理由で退任し、後任者への引継ぎを確実に行うことで、自らのCEOの在職期間を金メダルに値するものとして全うできるのだ。